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武田百合子の本で花見をする:非日常の日常で書く日記について

2020年春、梅が終わって桜が咲き、もうじき花びらの散る気配がきこえてくる。

日常が非日常に変わってもう二カ月ほどが経つ。
実際はそれよりもっと前から変わりはじめていたし非日常などというのはもともと日常と地続きであるのだから、日々という大きな単位でものごとを捉えてみれば最初から何も変わってはいないのかもしれない。
それが非日常であるのだという定義はいついかなる時でも、すべてそれぞれの人間の感覚に依るものでしかない。そのひとが〈いま〉が非日常だと気づいたその瞬間を境に〈いま〉は非日常と名づけられ、誰かが名づけたその非日常を知ることでみずからの非日常に気づくひとがいれば、あるいはべつの場所でべつの非日常に気がつき、それを自分なりの非日常として名づけるひともいる。

浅瀬をそわそわと流れていただけの新型コロナウイルスによる不安が三月の半ばを過ぎたあたりで鉄砲水となって爆発し、世界中が呑まれて溺れ、沈んでいく。
遠く近くのあらゆる街での異様な光景、政府の動き、政府への不満や怒り、これまでのフラストレーション、誰かの言葉、誰かのアドバイス、誰かの中傷、誰かの死。
そんな極限状態が〈自粛〉という二文字によって永遠に引き伸ばされているこの最中、インターネットをひらいてみれば、多くの〈ふつうのひとびと〉が同時多発的に日記やエッセイを綴りはじめているのが不思議だ。

不思議だ、とは書いたけれども、それはとりたてて不思議な現象ではない。
ひとの身体はそもそも言葉でできていて、言葉が溜まれば、ひとはそもそも言葉を吐き出したがる。言葉を綴りたがる。
災害や疫病や戦争や革命。人間にふりかかる禍いや非日常には、ひとの言葉への欲望を増幅させる力があるのだ。

非日常によって言葉への欲望が集団的に増幅される現象は、むかしから何度も何度もくりかえされている。
ペスト蔓延時にフィレンツェ郊外に籠もった若い男女10人が10日間それぞれの物語を語り合うボッカチオの『デカメロン』が、現在多くのひとびとに読まれていることからもそれは明らかだ。(なお、三月より『デカメロン2020』という現代版『デカメロン』企画が方丈社のホームページにて連載中である)

『デカメロン』やそのほかの小説に対する突然の注目は、「外出できないのならば家で読書をすればいいだろう」などという単純な行動ではきっとない。
やはりひとは、禍いや非日常に晒されたその時、小さな物語を無意識にもとめずにはいられない。何らかの禍いや非日常に見舞われたその時、ひとは日常であった時よりも日常の言葉を読み、書く。誰かの非日常を探し出して丹念に読み、同時に自分の非日常を丹念に綴っていく。
すさまじいスピードで流されていく日常を、ひとつひとつ確かめて拾い上げ、いまの自分をけして見失わないように。

いま世界中のあらゆる場所で、誰かのささやかな日記や物語たちが小さな花を咲かせ、その花のささやかな香りが国境をも超えてうっすらと重なりあっている。

日記やエッセイはもっとも手軽で、けれどもっとも難しい文学形態であるのだと思う。
それはピアノの演奏ととてもよく似ていて、鍵盤に指を落とせば誰でも音は鳴らせるけれど、一流の音色を紡ぐのはあまりにも難しい。

世に多くの名作日記や名作エッセイはあれど、なかでも武田百合子は飛び抜けて一流の日記の音色を紡ぐ。

***

武田百合子の著作のうちでは『遊覧日記』『日日雑記』『ことばの食卓』の三冊がとくに好きだ。

武田百合子の記す言葉はまずなによりとてものどごしが良い。話し言葉と書き言葉、それからまだ文字にはできていない〈考え言葉〉のようなもの、それらのあわいのような文章で、自分のまわりのさまざまな出来事や光景を綴っていく。練れた言葉のさらりとした旨味がつぎつぎに目に滲みとおる。

淡々と、というよりも、武田百合子の文章は軽薄であると表現するほうがふさわしい気がする。軽薄といっても、奥行きをもった奇妙で怜悧な軽薄さだ。そして透明感もある。子どもの頃の学校の帰り道、道沿いに立つフェンスの柵になんとなくてのひらを伸ばし、自分が歩きすすむのに合わせてタタタタタ、と鳴らして遊んだあの時みたいに、武田百合子は視界にすべりこんでくるあらゆるものになんとなく手を伸ばし、遊んでみる。

町の匂いや音、埃、ひとびとの呼吸や会話があまりにも透明感をもって羅列され、〈あまりにもそこにある〉。一見飄々としたその筆致には、けれど彼女のつよいこだわりや愛情、彼女の癖が至るところに染み込んでいるので、彼女の日記やエッセイを読むあいだ、わたしたちは彼女の視界にあまりにもしぜんに同化してしまう。

自分の生活に疲弊している時に、ひとはなかなか本を読む気を起こせない。
しかし、武田百合子の軽やかで怜悧で、そしてのどごしの良い日記やエッセイだけは、わたしはむかしからどんなに疲れた果てた時でも読むことができた。

とくに気に入っている『遊覧日記』『日日雑記』『ことばの食卓』の文庫三冊を、わたしは自分の気分や体調によって読み分けている。
とにかく武田百合子の飄々とした日々を追体験したい時には『日日雑記』を。懐かしい光のような記憶に手を伸ばしたくなった時には『ことばの食卓』を。そして、町やひとの呼吸を、文字を通してドキュメンタリー映画のように眺めたくなった時には『遊覧日記』を読む。

武田百合子は家に籠って半径2メートルほどの身のまわりをしんしんと綴ることも多いけれど、娘と一緒になにかと用をこしらえて外へ出かけることも異様に多く、怠惰なようで活動的で、文庫をひらき、そんな彼女の性質を感じられるだけでも、なんだか可笑しく愛おしい。

『遊覧日記』のなかでわたしは「青山」という短い話がとりわけ好きで、もう何度読んできたかわからない。

――うちの猫? 十匹ぐらいいるかしら。赤坂にいた頃は二十匹ぐらいいました。空襲になると猫は怖がってね。畳一枚あげて床下の防空壕に入れてやりました。空襲で焼けたんでここ(青山)に来たの。この一帯は都の持ちものでね。焼け出されや引揚げが住みついてるの。こんなもんで御免なさいよ、こんなもんで。  ――「青山」

そう言って、どこにでもいそうなお婆さんが突然両手でお煎餅の袋をひき破ってちゃぶ台にぶちまけ、一間だけの狭く雑然とした家のなか、自分の来し方をとうとうと話しだす。とても気持ちのよい春の日で、一体どうして武田百合子がそんな家を訪れたのかもわからないまま武田百合子はしげしげと軒からみえる明るいおもてを眺めつつ、そのゆっくりとした視界とは裏腹に、お婆さんの話はどんどんどんどんすすんでいく。
死んで今年で八年経つ夫の記憶、あさりを一粒一粒しごいてムキミにしていたという貝屋での労働の記憶、そのムキミを回収に来ては菓子をつまむ若衆の記憶、その若衆と菓子をつまみながらしゃべっているうちに《あーあ、貝洗って剥いて、あっという間に年とりました。子も生まなかった。どういうもんか、あの、セックスっていうのかね、あたしはああいったもんは、あんまり好きじゃなかった》と、お婆さんは武田百合子にむかって感嘆する。

持ち主のいなくなった夏蜜柑や枇杷や南天を、影の沈んだ家の底から武田百合子はぼんやり見上げ、《ここにやってくると、正気に返るのだか、夢におち込むのだか、頭の中で「ああ、ねえ」と、やたら呟くばかり》と思いを馳せる。

他愛もないおしゃべりのあとにお婆さんは近所の中華屋の割引券を持たせてくれて、武田百合子はその日五百円のチャーシューメンを食べ、それから「今度ご飯を炊いておかずを作るから一緒に食べよう、五月三日に来てくれ」とお婆さんに言われていたので五月にふたたびその家を訪れると、お婆さんは約束も武田百合子のこともすっかり忘れていて怪訝な顔で振り返り、夏に行くと戸が閉まっていて秋にはそこが平地になりすべてが消えていた。と、いうだけの話だ。

ただそれだけの話であるにもかかわらず、この一瞬の日記は、いつだってわたしの心を掴んで離さない。
ひとの一瞬を物語にすることに対する武田百合子の勇敢さと慎みが、この話にはみなぎっている。

武田百合子は春が来る度にいつも桜見物に出かけていく。
武田百合子の日記やエッセイを何冊も読み慣れてくると、彼女が町に咲く桜を好きであることはさもありなん、と思えてくる一方で、怜悧な彼女が桜を好きであることがなぜだか不思議でたまらない。桜の気配が漂いはじめると居ても立ってもいられなくなるのか、言葉上では普段どおりに飄々としているのに娘を呼びつけいそいそと花見の用意する彼女のすがたが遠くに見えて、ふふ、と微笑いがこぼれてしまう。

外に出てはいけない、ひとや屋台が寄り集まって花見をしては絶対にいけないと自粛をもとめられているいまこの時に、もしも武田百合子が生きていたならば、彼女はどんな言葉でこのいまを色鮮やかに綴るだろうか。

ひとまずわたしはいつもと変わりなく、武田百合子の日記やエッセイをぼんやりと眺め、読む。
今年はあまりひとに見られない桜の花の下を足早に歩きすぎながら、今年は武田百合子の言葉のなかに残された、幻の桜の光景で花見をしたいなとふと思う。

桜の下に並んだ屋台から、焼きとりの煙、いか焼きの煙、焼きもろこしの煙、おでん汁、ソースの匂い、ゆで卵の匂いが盛んに流れ漂い、割箸と紙皿と空缶の散らばる土手道には、犬を抱いた夫婦、車椅子の老人、若い二人連れ、マラソン練習の男などが、ぞろぞろ往来している。土手道に上ったとたん、舞台の上の人になったみたいだ。

屋台と屋台の間には、コバルト色や縞柄のビニール布を地べたにひろげ、靴を脱いでその上に坐り込んだ老若男女が、対岸のビルの丸いタンクののった屋上に傾きかかって一層黄色味を増してきた西陽を、もろに顔面に浴びて、疲れれあぶらを滲ませつつ酒盛り中である。
(略)
「もう三日も続けてサクラ見てんだ」
「雪の上で転びなすって、その上にまた転びなすって」
「上っぱりにもやしがついてる。どうしてついているのかと思ったら卵焼」
「頭の中がガンガンして」
「もうなっちゃった」
「誰も心配してくれない」
「サクラってのは咲ききるとね、急に白くなるんですよ」
「度胸があるってーのじゃないんだ。ボケてるんだ」
私とHも堤防のコンクリートをお膳にして、持ってきたものを並べ、大川に向かって宴会をはじめる。
眼に見えて対岸から風が吹きわたってくる。土手の桜の花びらが先ず震え、枝先が左右に揺れ上下に揺れ、一拍遅れてわっと花吹雪が起る。そのあとは風がなくても滑るように花が散って止まない。この花は、そういう具合になるように花びらがくっついているのだ。
太い首を振って歌う背中に、放歌高吟のあげく前後左右がわからなくなりシンとしてしまった背中に、放り出してある青いゴムホースのたぐまった上に散る。ガスボンベやポリバケツの蓋の上にも、棄ててある小さな植木鉢の上にも散る。隣りの桜の花の上にも散る。  ――「隅田川」

***

〈いま〉を残す日記やエッセイに触れるその時、ひとはきっと、遠い未来の光を夢見ている。白くけぶった桜の森の下、花見のにぎやかな気配をそばに感じながら、花びらが舞い落ちてくる道沿いのフェンスになんとなくてのひらを伸ばし、タタタタタ、と鳴らしながら歩いていく。そういうふうになんとなく日記やエッセイを記す。すると過去と未来が、遠い場所と近い場所が、一瞬だけ地続きになる。その淡い一瞬をわたしたちは生きている。

非日常を真正面から受け止めて全力で何かを訴えつづけていたら、わたしたちはかんたんに壊れて、大切なことはかんたんに消えてしまう。

そうではなく、いつか遠い未来に〈それ〉が非日常であったのだと、そしてまたそれも日常であったのだと知るために、小さな花のようなわたしたちの日記やエッセイはあるのだと、武田百合子を読む度にわたしはしみじみと思うのだ。

*『遊覧日記』武田百合子, 筑摩書房, 1993年1月刊行

磯貝依里

磯貝依里

本を読むのが好き。
現在、DRESSにて読み切り短篇小説「やがて幻になるこの街で」( https://p-dress.jp/keyword/key_4551 )を連載中。
書評やエッセイの執筆、文学トークイベント主催など活動中。

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